さて、江戸城の中心にその周辺地理を見ておくと、さらにおもしろいことに気づきます。
上野の寛永寺は、江戸城の鬼門除けのために建てられたということを述べましたが、もともと江戸城鬼門除けとされた場所が別にありました。
その一つは永田町の日枝神社です。もとは太田道灌が川越市に祀られていた山王権現を江戸城内に移し、白の鎮守にしたものを、徳川家康が江戸城に入城した時に、近江坂本の日吉神社とともに城内の紅葉山で祀り、さらに半蔵門の外辺へ還座させました。その後、明暦3年(1657年)正月の振袖火事で炎上したため、現在の赤坂溜池の隆起した吉地に還座しました。
もう一つは、平将門を祀った神田明神です。現在でも将門の首塚はビルが立て並ぶ大手町界隈にちゃんと残っています。
日枝神社と神田明神をともに江戸城の鬼門に移しておいて、さらに寛永寺を建てるという執拗なまでの鬼門守護にかける天海の意地は凄まじいものがあります。
それもこれも家康の本命卦にとって、東北方が大吉方(天医)なのに江戸城の東北は凶相だったからにほかなりません。
天海はまた、東北と正反対である西南の方位、つまり裏鬼門に当たる場所に芝の増上寺を建て、裏鬼門除けとしました。
西南は易では坤卦で、家庭・母親・日常生活に関したことなどをつかさどっていると説きます。また家康の本命卦からも中吉方(延年)になります。徳川家のお家安泰・子孫繁栄のためにも、天海は西南の裏鬼門にゆるがせにしなかったと思われます。
ちなみに、西南の裏鬼門は未申で、季節にとれば新暦の7月7日の小暑から8月8日の立秋をへて、9月7日の白露までの時期に当たり、1日にとれば、午後1時から3時が「未の刻」で3時から5時までが「申の刻」に当たります。また、これは夏・昼の陽気が終わりを告げ、いままさに陰気に変わろうという時に当たります。
天海は江戸城からみて北に当たる日光に東照宮を建立しました。北は十二支でいえば、「子」、季節でいえば、冬で、易では坎の卦に当たり、部下、盗賊・剣難などを意味します。東照宮を建立したのは、徳川家がよき部下に恵まれ、諸大名の謀反を防ぎ、お家の安泰を期するためであったということがわかります。
以上のように天海が陰きわまって陽に変ずる東北の鬼門方位を大事にしたのは、時代の変還、時流の変化を恐れたからでしょう。事物がおよそ変化変転する時には、内と外との力関係の均衡がとれなくなるものです。つまり、外国との往来を鎖国によって抑制したのは、外的圧力を断ち切るためだったのです。
当時一般人がどの程度、方位に関心をもっていたのかはわかりませんが、いまでもなお東北の鬼門を忌み嫌うのは、このような考え方が江戸時代から、民間に伝承したからではないでしょうか? |