江戸幕府の幕藩体制において、いわゆる徳川御三家が設けられていたことはご存じでしょう。徳川義直を尾張(尾張藩)に封じ、徳川頼房を水戸(水戸藩)に封じ、徳川頼宣を紀伊(紀伊藩)に封じて、もし将軍家に世継ぎが生まれなければ、原則として尾張が紀伊から迎え、とくに水戸藩からなるべく世継ぎを出さないように配慮していたのです。
天海はこう遺言しました。「水戸藩より世継ぎ(将軍)を迎える時、徳川家は終焉する」はたせるかな、第15代将軍である徳川慶喜は水戸家から出ましたが、大政奉還、明治維新の世を迎え、ついに徳川幕府は終焉しました。
この謎を解くカギや「鬼門」です。水戸藩は江戸城から見て東北鬼門方位に当たったのです。東北は先に述べたように変化・相続をつかさどるとされていますから、「相続が変化する」ことを意味し、徳川家の存亡が危ぶまれるわけで、水戸藩から将軍家を迎えてはならないとした、と考えられます。
東北鬼門方位の上の山に寛永寺を建てたのも、こうした理由があったのです。 |